広隆寺見聞録

 広隆寺(こうりゅうじ)は603年に聖徳太子の側近を務めていた朝鮮半島からの渡来人(とらいじん)秦氏(はたし)によって京都の太秦(うずまさ)に建立された京都で最も古いお寺です。飛鳥時代から奈良時代にかけての仏像が多数収蔵されており、国宝だけで17体を数えます。

弥勒菩薩半跏思惟像

 広隆寺に安置されている数多くの仏像、その中でも最も有名なのが623年に新羅から送られたと伝えられている国宝第1号でもある木造弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゅいぞう)です。

 半跏とは台座に腰を下ろし足を組んでいる事をいい、思惟とは思索(しさく)にふけることを言います。弥勒は釈迦の入滅後56億7千万年後、乱れきった末法の世となってしまった世界を救う仏と言われています。つまり、菩薩半カ思惟像とは弥勒がどのように人々を救うか思索している姿というわけです。
 ちなみに、弥勒菩薩とも弥勒如来とも言われますが、これはどちらも正解です。如来とは悟りを開いた者の事を言い、正確には如来だけが仏です。菩薩とは如来を目指して修行中の者の事を言います。弥勒はすでに如来となる資格を得ているのですが、まだ自分は考えることがあるとあえて菩薩にままでいると言われているのです。

 この広隆寺の半跏思惟像は1本の赤松の木から創られています。飛鳥時代の仏像はそのほとんどがクスノキで作られているのですが、この半カ思惟像だけは唯一クスノキではなく赤松で作られています。当初は全身が金箔で覆われていたものとおもわれます。その証拠に平安時代の広隆寺の記録帳には金色菩薩像と記されています。現在のすばらしい木目は1300年という年月が少しずつ浮かび上がらせたものといえるでしょう。

 半跏思惟像は新羅、百済、高句麗が争っていた朝鮮半島から伝わったと伝えられています。
 この広隆寺以外には奈良の中宮寺にある他、長野県北安曇群松川村にある観松院にも重文菩薩半か像があります。これは、朝鮮半島で7世紀前半に創られた渡来物で、細い胴体は朝鮮半島の仏像の特徴の30センチそこそこの小さな仏です。ちなみに、あずみのは九州に本拠地を置くあずみ氏が開いた土地です。


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